南インドを後にし、わたしは一気に針路を東にとりました
数年前、友人の尼僧に見せてもらった、1枚の写真があります それは、ゴータマ・シッダッタ、のちのブッダが悟りを得るために6年間修業をした山並みの風景でした
その荒涼とした情景を見た瞬間、わたしの目は釘づけとなり、その後自然と涙があふれたのです この時、きっと将来この地に立つのだろうと予感したのですが、ようやくその山、Mahakala Mountain(前正覚山)を訪ねることができたのです
周知のとおり、その後彼は悟りを得られぬまま、ウルヴェーラーのセーナー村へとおり、そこでスジャータという娘からキール(乳粥)の供養を受けます その後ネーランジャラー河で沐浴をし、菩提樹の樹の下に坐って瞑想に入りました 満月が沈む、明けの明星が輝く暁に、ついに”最終地”へと到達されたのです
わたしは早朝にセーナー村を出発し、彼が6年間坐っていたケーブの中で、1人瞑想をはじめました そこには、彼の真っすぐな想い、純粋さしか遺されていませんでしたが、そのあまりの清らかさに、時の経つのも忘れ鎮坐していました 誰の心にも存在するピュアな萌芽 それが波立ち震えはじめる時、その衝動をとめることは、もはや誰にもできないのです
その後、わたしはブッダがたどったままの足跡を歩みながら、ガヤの町へと入りました 今では、世界中の仏教徒が訪れる揺籃の地 各地からの巡礼客でにぎわい、各国のお経が、まるで1つのハーモニーのようにやさしく響きわたっています わたしは大寺院の菩提樹をながめながら、解放へと向かうすばらしい瞑想法を授けてくださったことに、深い感謝を捧げたのでした
***
毎朝、セーナー村から望む朝日を浴びながら、スジャータ・ストゥーパで瞑想することが楽しみとなっていたのですが、後ろ髪をひかれるように次の訪問地、ヴァラナシへと向かう列車に飛び乗りました ここは、言わずと知れたヒンドゥーの一大聖地 すべてを受け容れ飲みこむ大河が、雄大に横たわっています
列車に相席した人が、わたしに耳打ちします 「ガンガーが、見えてきたよ」
沐浴をする人の横では、洗濯屋が仕事に余念なく ゴミをあさる牛のその先では、死者を火葬する黒煙が、絶えることなく立ち昇っています この母なる河には、インドのすべてが詰まっているといっても、決して言い過ぎではない日常が、凝縮されています 夜には、花灯籠を浮かべ祈りを捧げる女性たちのすぐそばで、ナイトプージャが毎夜盛大に催されます
ガートに座って人々の営みをのんびりと眺めながら、この大河が営々と為してきたなりわいに、思いを馳せていました そして、ずっと火照っていた心と体も、少しずつガンガーの流れに洗われ、冷まされ鎮まってゆくのでした
ヴァラナシの郊外には、ブッダが初めて説法を説いた地、サールナートがあります ブッダガヤで成道を果たした後、かつてともに修業をしていた5人の友人のもとへ赴き、この北郊の鹿の園で真理を説かれたのです
どういうわけか、日本の若いバックパッカーたちが、瞑想を教えてほしいとわたしの後について来ます 急きょ小さなツアーとなって、私たちはかの地に到着し、沈黙のなかでダメーク・ストゥーパを廻りながら、一緒に坐ることとなりました
ヴァラナシの喧噪とはうってかわって、穏やかな空気の流れる平和な聖地 若者たちは目をキラキラと輝かせ、束の間の分かちあいを楽しんでいるようでした
インドの新年である、ディワリの新月が近づいていました 漆黒の闇夜が、キャンドルの光で埋めつくされるこのお祭りは、別名”光のフェスティバル”とも呼ばれています
万人の霊性の闇を光で照らすことを象徴する祝祭とも言われ、豊穣と収穫の女神に祈りが捧げられます わたしは夜行列車に揺られながら、次の訪問地である西の果て、グジャラート州はカッチ地方をめざしていました
かつて天竺と呼ばれた、遥かな地インド どれほどの真理探求者たちが、この地を遠く仰ぎ見、夢みたことでしょう 多くの聖賢たちが、かの地へ向け命がけで出立しましたが、今ではエアチケットを手に入れれば、誰でも簡単に訪ねることができます そんな時代でも尚、この国は、純粋な求道者たちにとって、避けては通れない悠久の大地となっています
ラマナアシュラマムの正門をくぐるのは4年ぶりですが、今回は、初めてインドを訪れる仲間たちと一緒です いつも現地の方からうかがうことですが、初のインド来訪で、まっすぐアルナーチャラへ来る者は、たいへん幸運である、と…
4年前のわたしにも、そして今回の参加者の皆さんにも、同じ言葉がかけられました それほどこの地は、インドの人たちにとっても、特別な場所なのだということを物語ってくれます
アシュラマムの空気に触れると、それがどんなに鈍感だと称する人にとっても、即座にバガヴァーンのやわらかなもてなしに気がつかれるでしょう 世界各国からの巡礼客に開かれたこの地で、満月期のピルグリムがスタートしました まずは、ゆったりと流れる南インドの時間に着地していただきながら、バガヴァーンが臨終の最期まで過ごされたアシュラマムの各所を見学し、各々好きな場所で瞑想や内観のひとときを持っていただきました
今回、私たちのグループのガイドをお願いしたシリウス・マハナンダ 鈴木さんは、長年に渡るアシュラマム長期滞在者であり、熱心な信奉者のお1人です 彼のウェブサイトから情報を得、アシュラマムを訪れる日本の方々も数多くいらっしゃいます
アルナーチャラを一望できる素晴らしいスポットをご紹介いただきながら、満月の日には、バガヴァーンの日本語訳本を多く手がけておられる福間巖さんのガイドで、皆でアルナーチャラヒルにのぼりました 現地では、プンジャジからいただいたホーリーネーム「チャンドラ」さんというお名前のほうが、ずっと通りのよいことでも知られておられます
朝日に照らされた、スカンダアシュラマムまでの森閑な道のり そして夕刻には、丘の麓で彼を囲み、サットサンガが実現しました 福間さんの、ストレートで純粋なまなざしは、わたしを含むすべての参加者の心の中核を、深く真っすぐに貫きました
彼自身から語られるプンジャジとの想い出 「今ここの、純粋な気づき」の大切さ アルナーチャラ(真我)が、全ての責任をとり面倒をみてくれるという、ゆるぎない確信 「観ている者は誰か、それを観なさい」 ー 言葉ではとうてい語り尽くすことのできない、至極の叡智の数々は、私たちの血肉にしみわたる教えとなったのでした
そして、シヴァ神の信奉者たちがアルナーチャラを大巡礼する混乱を避けて、翌日にギリプラダクシナを行いました この火の山のエナジーはたいへん強力で、歩きはじめるとすぐにその熱を感じ始めます 終わった後には、発熱でダウンする方もおられましたが、それもまた、この山からのかけがえのない恩寵なのです
今回、もうお1人の日本人信奉者であるシューニャさんこと崎山綾子さんとの分かちあいが実現したことも、私たちにはありがたい恩恵でした アルナーチャレーシュワラ大寺院をガイドしてくださり、ラマナが最初に到着した東門を入って、千本柱廊の地下室を参拝 そして、沈黙の聖者グルムールタム像の前で、分かちあいが生まれたのです
雨期だとういのに、私たちの滞在中雨はほとんど降らなかったのですが、この時ようやく待望のブレッシングが降り注ぎました
内なる貴さに出逢うことの大切さ この国には、他の場所には決してない神聖さが存在していることを、彼女は深く熱いまなざしで問いかけてくださいました
プンジャジのお御足から、アルナーチャラへと導かれた2人の日本の方々との分かちあいを通じ、師から子弟へと受け継がれる、連綿と流れる叡智の大河を想うのでした そして、その清流に身を浸すことができた私たちは、なんと幸せ者だったことでしょう
アルナーチャラの、決して絶えることのないかがり火は、参加者の皆さんのハートに確かな火を灯しました その後のそれぞれの変容も、計り知れないものとなりました 私たちをやさしく手招きくださったバガヴァーンに、最上の感謝と静寂を捧げつづけたのでした
*福間さんはバガヴァーンの教えに関する個人的な質問にはいつでもお答えしますが
普段サットサンガは行っていません また師という立場もとっていません
純粋な分かちあいのみです
スーパームーンと中秋の名月が楽しめる今回の満月は、久しぶりの葉山でオープンサークルを開きました
懐かしい街角を歩いていると、どこからともなくキンモクセイが香ってきます
今回はMOKSHA ayurveda centerのスペースをお借りし、おじゃまさせていただきました
こちらは葉山在住の折、ヨガやクッキングクラス、トリートメントなどで何かとお世話になっていたサンクチュアリです 変わらぬ南インドの空気感の中で、静かに分かちあいがスタートしました
真我探求と日常生活をつなぐことの難しさについて、最近とくによくご相談をお受けすることもあり、今回は「太極図」を用意して、ヒンドゥーの教えをベースにお話をさせていただきました
インドには、人生を4つの段階にわけるアーシュラマという教えがあります 前半の学生期や家住期は、物質世界の達成や充足を目標とすることで知られていますが、後半の林住期や遊行期への自然な移行が、今の時代はたいへんな困難を極めているといってもいいかもしれません
人生の前半は、所有することや獲得することをめざし進んでゆきますが、後半はまったくの反転、明け渡しや手放すことが最大のテーマとなってゆきます
この、精神世界への移行の途上では、それまであまりすすんで生きてこなかった側面や、避けて通ってきた事象が浮上してくることもしばしばです 真実はまるで、そこから逃げず、しっかりと反面を生きるようにと、叱咤してくれているかのようです この道は、きれいごとでもなんでもない、時に七転八倒するような出来事も数多く経験してゆかねばなりません
この2つの世界が1つの円を為し、溶けあうとき、人生の、あるいは、生命体の完成といわれる甘露の境地が開かれてゆくのです
集いのあとは、MOKSHAのサジンお手製の、南インドのおやつ”ウンダ”をふるまっていただきました やさしく甘いお米のお団子は、ひとときのネクターを享受する味わいでした
そして、来る満月へ向けて、すばらしい心と体の準備となる集いとなりました
緑深まる安曇野に、2年ぶりに帰ってきました
初夏のさわやかな風が舞う中、今年もサイレントリトリートを開催しました
集う方々との分かちあいも年ごとに深まり、私たちが一体何をしているのか、さらに明確となる今回のリトリートとなりました
皆の人生には、自然にさまざまな変容が起こり、坐ることが日常となる方もおられ、それぞれの成長に、目を細める場面がたびたびやってきました
私たちのしている仕事は、果てしない家族の物語を終息させてゆくことです それは1軒1軒の家を訪ね、壊してゆくこと とくに、男たちによって築きあげられてきた象徴を、女たちが静かに消し去ってゆくこと それは時に、家人や最愛の人との死に直面することでもあるのだと、実体験を通じ気づいてゆかれる方々との分かちあいが続きました そしてそれはさらに、民族や人類の壮大な物語の終焉へと大きく波打ってゆきます
このような険しい道を、もっと簡単で楽に歩く方法はないのでしょうか? 最近では、アドヴァイタの教師と名のる人たちでさえ、瞑想をする必要はないと教えているようです しかしそれは、賢者たちの人生を見れば、一目瞭然のこと 彼らは、直接体験ののち、そのことにあぐらをかいていたでしょうか? ラマナは、その後数年間、先達や友人を求めることなく、たった1人沈黙の中でそのことを確かめ続けました 坐ることが止むことは、決してありませんでした 彼らが実際に生きてみせてくれたことが、その純粋な答えです
坐ることは、太古の昔から、祖先たちが大切な叡智として、口伝を通じのこしてくれた宝物の1つです これは、私たちが子宮の中にいたころの記憶をたどり、それをそのまま生きることでもあります すべての必要が満たされた安全な時空 ーそれが洞窟であろうと小部屋やホールであろうとー その中で、ただ本質のままに生きる、最も純粋な在り様です ただ、自らを拠りどころとして歩む道へと続く、大切な智慧なのです
今回は、セクシュアリティについての分かちあいも数多く生まれました これは、私たちが真実の道を歩く上で避けては通れないテーマです 近ごろ、女性性を活性するワークも花盛りだそうですが、多くの女性たちは、自分自身の本当の魅力に、いまだ気づけずにいます
自らの本来の美しさと出逢う女性は、決してその魅力を、何かをコントロールする道具に利用することはありません 細心の注意を払い、そのことが不当に使われないよう、気づき続けているはずです こうしてソウルメイトとのドラマも終わりを告げ、真の出逢いと友情に向き合ってゆく準備が調うのです
私たちが肉体として生まれてくる時には、必ず苦しみを体験します
それは内なる再誕生の時でも、まったく同じこと 苦しみから逃れようとするのではなく、その中へ飛びこんでこそ、真の解放がもたらされるということを、1人1人が確かめる機会がめぐってきているのです
内なるグル(指導者)は、その探求者の器にふさわしい技法(テクニック)を授けると言われていますが、エタニティでは、ヴィパッサナー瞑想へと通ずる「呼吸の瞑想」を、皆と一緒に練習しています この技は、真の苦しみと解放を実現する、すばらしい機会を与えてくれるでしょう そしてもちろんこの技も、最後には手を放し、明け渡してゆくものなのです
深い霧が立ちこめる六甲山 梅雨のはじまりの日の午後に、オープンサークルを開きました
私たちが内なる叡智とともに人生を歩む時、その智慧は3つの成長の過程を経ると言われています
1つめは書物や教典など、古(いにしえ)の賢者たちの言葉や教えを手にとり知的に学ぶこと 2つめは、実際にそれを生きる先達たちと出会い、質問や交流をかわすこと 最後に、自分自身の直接の経験によって智慧を完成させるというプロセスです
エタニティではいつも、この3つめの段階をもっとも大切にすることを分ちあってきました どのような素晴らしい教えであっても、必ず自分自身の体験を通して確認したものだけを拠りどころとすること それは、前の2つの段階が、未だ他者を模倣する借り物の知識にすぎないことを意味するからです
この道を歩む日常の、さまざまな直接体験の中でも、特に圧倒的な孤独に耐えられないという相談も数多く寄せられます
この最後の叡智が開いてゆくとき、私たちの心は、この広大な宇宙の中で、最初からたった1人でしかいなかったという事実と真向かうことになります それは、想像を遥かに超える恐ろしさかもしれませんが、誰もが通らなければならない、正しい道のりなのです
森の中を歩いている時、突如、”わたしは孤独であり、またすべてである”ことを思い出される方もいらっしゃいます 自然からの慈愛を受けて、細胞の1つ1つに刻まれた記憶が呼び覚まされるのです この体験が特別なものでなくなるまで、私たちの瞑想は続くでしょう そして、その先には、あまりにも自然でありふれたお仕舞いが待っているのです
私は3週間ほどの間、”ゴールデンランド”と呼ばれるミャンマーを旅していました
その名の通り、どんな小さな集落を訪ねても、私たちは黄金色のパヤー(仏塔)をそこに見つけることができます
ここは、ヴィパッサナー瞑想者たちにとっての聖地
その教えを、純粋なままに保持し続けてきた唯一の場所とも言われ、今でも、彼らはこの国を以前と変わらず “ブーマ”(ビルマ)と、親しみをこめて呼びます
今回わたしは、この叡智を伝え続けてくれた賢者たちのゆかりの地を訪ね、また世界中からここに集まる瞑想者たち、そしてこの地の在家、出家者たちとともに、沈黙の時を過ごしました
ヤンゴンに着いてすぐに、友人がドレスを仕立ててくれ、こちらの民族衣装であるロンヂーを履いて、タナカという樹木のおしろいを塗りながら、毎日の瞑想や巡礼がスタートしました
数年前から、1年のうちの数ヶ月間、わたし自身が何ものからも干渉されることなくセルフリトリートができるのは、ひとえにこちらの瞑想センターのおかげなのです ここは、瞑想者たちの善意と寄付でまかなわれており、1人ひとりにエンスイートの個室と温かい食事が用意され、いつ何時でも、真実を観察できる環境が調えられています
立派な瞑想ホールも完備され、すっかりラグジュアリーな瞑想生活に慣れてしまった私は、この草創の、先人たちの素朴な瞑想人生に触れたくなり、また感謝をあらわしたくなりました
こうして、このヴィパッサナーの源流をさかのぼる旅が自然に生まれてきたのでした
ある場所は、都会の喧騒のただ中のオアシスであり、またある場所はラングーンリバーを越えた、当初の面影そのままの田園風景が広がり、さらにその先は、ヒマラヤからの雄大な源流を見下ろす、静かなケーブ(洞窟)でもありました
現在の洗練とは程遠い、ヴィパッサナーの原風景に接しながら、むき出しの真実を余すところなく味わう旅となりました どこまでも続く赤くたくましい大地に支えられ、乾いたモンスーンの熱風が、一気に心と体のすべてのしこりを吹きとばし、溶かし去ってくれました
この国の人たちの日常や人生には、覚りへの理解と瞑想の修養が、今も自然に息づいています 老若男女が、たとえ数週間、数ヶ月でも世間を離れ、自分自身と静かに向き合うひと時を大切にしています その自然な有り様は、これからのわたし自身の歩みに、さらなる励ましと力添えを与えてくれるものとなりました
4月の満月は月食となり、ここヤンゴンでも黄金のシュエダゴォンパヤーとの共演を楽しむことができました この素晴らしい機会に、新たな歩みや解放を体験される方もいらっしゃったことでしょう そして、テーラワーダの国々がもっとも華やぐ新年のお祭り、ウォーターフェスティバルの喧噪を避けるように、この国を後にしたのでした
冬籠りの虫たちが地中から顔をだす、
啓蟄の日の穏やかな午後にオープンサークルを開きました
エタニティには時折、母娘のお2人がそろって相談にみえられます
それは本来、祖母、母、娘へと受け継がれていた女性の叡智が途絶えてしまったからに他なりません 今の時代の必然、といってもよいでしょう そのため、教えを受けとれなかった娘たちの嘆きや反乱が、世界の各所で起こっています
女性という器を生きるとき、そこには必ず「傷を負う」という体験が起こります それは、私たちの心身が自然に近く創られており、繊細でやわらかくできているためです そして、その負傷は、女性を2つの道へと分かちます 苦難の道か、智慧の道か…
エタニティでは、1年のいくつかの節目のなかでも、特に冬至を大切にしてきました これは、暗く寒い地中で、誰にもいたわられることなく沈む闇の女王へと出逢うためなのです 誰の心にも棲まう彼女のことを、もう押しやったり無視したりすることのないように… との願いをこめています
女性たちは、この外傷を賢明さへと変容させてゆく力をたずさえています そのため、それを確かめるためにここへやって来られるのです 賢女を生きる階段を一歩一歩歩みながら、その歩みはやがて、男性の人生へと浸透してゆきます
男性は時に、その暗闇にある女性を救うため、命をかえりみることなくその深い闇に飛びこんでゆくことがあります 彼らの勇気と完全な明け渡し 私たちはこれをそれぞれの内面で直接経験し、叡智の目ざめを成し遂げてゆくのです
今年初めてのオープンサークルは、立春の満月の日の開催となりました
ここ数年、大地の知性と呼ばれるものへ、感受性がますます開かれる人たちとの出逢いが増えています 私たち”日本人”と呼ばれているものもまた、その大もとはすべてこの知力よって支えられているということを、何時も忘れることはできません
この、世界でも稀有な知性を放つ場に触れようと、今多くの人たちの関心が寄せられているように思います それは時に、この”日本人”を介して触れあう、ということが試みられているかのようです
これは、私たち1人1人が自身の内深く、地下深くに自然と結びつけられていることの反映なのでしょうか そして、それを気づきとして生きることは、まさに、忘れ去られた神話を取り戻してゆくことへとつながってゆくのだろうと思います
神話の時代、もともと1つだったものが2つに別れた瞬間 天と地の分離にともなう痛みや苦しみが、生々しく表現されています その善悪の境界とも言うべき壁が、ますます濃くなろうとしている今、私たちは心の奥深くで綴られているものを、もう一度皆で共有しようと試みているのかもしれません
この大地に棲まうものへと出逢うためには、一人一人が細心の礼節と畏れを持って、謁見しなければいけないでしょう
そして私たちはこれからも、まるで賢者と出逢うかのように、場と出逢い、交流を深めてゆくのでしょう
今年の冬至は新月と重なるという、
新鮮な息吹きの始まりを楽しむのに、絶好の機会となりました
残念ながら、今年はこの日に日本にはおりませんでしたので、恒例のニューイヤーパーティーを開くことができませんでした
しかし、今年1年、エタニティに集ってくださった方々への感謝の気持ちをあらわしたく思い、ご希望の方々へシュトーレンをお送りさせていただきました
真実との出逢いに導かれた人々は、私たちにとってはすべて ”悟りの人” ブッダです
その方々へ食を供することは、私たちの何よりの歓びでもあります
食べることについては、ここでもずいぶんとさまざまな形で分かちあいを続けてきました
本当の人生を歩みはじめるとき、私たちはそれまでの「生き残りをかけたサバイバルの食事」から、「より良き死へと向かう平和な食事」へ変化を遂げてゆきます
これは決して後ろ向きな生き方ではなく、人生の時間を一瞬も無駄にはしないという、たいへん積極的な生き方への変容でもあるのです
今年は東から西へと、拠点をうつす転機もめぐってきました 東にいる頃は、自己実現を現世利益の形で追い求めようとされる方々にお会いする機会が多かったように思いますが、西へ来ると一転し、僧侶や瞑想修行を続ける方々との分かちあいの場面がたびたびやってきました こちらは、来世利益を求める世界、とでもいうのでしょうか… しかし私自身の日常は、このどちらにも足をかけることなく、自由に展開されていったように思います
わたしの生きる場所は、やはり「ここ」なのだと、改めて実感する1年でもありました
私自身、心の解放はラマナから、そして体の解放はブッダから手ほどきを授かりました
そしてそれは今も、止むことなく続いています
来る年は、この男性賢者たちが直接生きた地やゆかりの足跡をたずね、感謝をささげる旅が続いてゆきそうです そしてその行く先には、いよいよ女性賢者たちからの手ほどきを受ける好機が到来することも、ひしひしと感じています
彼女たちは、教典やテクニックという言葉や形を遺すことはありませんでした わたし自身が真に生きようと望む、その展開を楽しみに待ちながらも、あともう少しだけ、男性賢者たちからの指南を受けとってゆこうと思っています
***
今年もさまざまな場面で、エタニティと出逢い分かちあいをいただき、
本当にありがとうございました
今年ご寄付をいただきました総額は、12/30現在で39,000円となります
運営費の12,000円を差し引き、残金は62,000円となりました
運営費の内訳は、オープンサークルのお茶菓子代、シュトーレンとその送料、ホームページの管理費として使わせていただきました 残金の半額31,000円(送金手数料を含む)を、ラマナアシュラムへ寄付させていただき、残りの31,000円は来年度の運営費として繰り越しをさせていただきます
今年も皆さまの温かなお心づかいをいただきましたことを、ここに深く感謝いたします
ありがとうございました
そして来年もまた、どうぞよろしくお願いいたします
初夏の太陽が日に日に輝きを増す南半球の島国、ニュージーランド
その最北に位置するケリケリという小さな町で、サイレントリトリートを開催しました
この数日前、わたしは日本からの参加者をお迎えする準備のために、海へ出かけました
ちょうど、子育て中のボトルノーズドルフィンたちのポッド(母子の群れ)に遭遇し、並んでボートを進めました 母親たちを心配させないよう、最初は海に入らなかったのですが、人なつこい彼らは私たちの周りから離れず、お言葉に甘え(?)少しだけ一緒に泳がせてもらいました リトリートへの準備が心身ともに調えられたような、平和で穏やかな、そんな午後のひとときでした
参加者の皆さんは、それぞれの想いを胸に、ここにたどり着くまでに、様々な思考、感情、そして体の痛みといった荒波にさらされておられました ケリケリに到着され、安堵の呼吸がよみがえり、少しずつゆったりとしたこちらの空気に溶けこんでいかれました
普段、何気なく過ごす”日本”という場の日常の中で、どれほどこの枠組みに寄りかかり生きてきたかを実感される方もいらっしゃいました ”ここに到着するまで、決して自身の呼吸を忘れないように” とアドバイスをさせていただいていましたが、いつもの言葉や習慣は通用せず、緊張の連続だったようです
少人数の開催でしたので、瞑想する時間を多くもうけ、普段のわたしの日常と同じ体験をしていただきました
安らかな沈黙のただ中で、皆とただ坐る時間 何も着飾ることのない、裸の呼吸…
どの瞬間も、幸せで満ちているという事実を確かめられます こんなにも多くをいただいているのに、私は一体何を返しているだろうか?と、深い問いを持たれる方もいらっしゃいました これは、素晴らしい気づきです
私たちは、ただ受けとることしかできないこと
怖がらずに、ただ静かに、この器を開いてゆくこと
それしかできないのだと気づく時、私たちが受けとったものだけが、さらにそれを必要とするところへと自然に流れてゆくのです だからこそ、私たちは深く頭を垂れ、この瞬間への謝意をあらわすのかもしれません
瞑想生活が進むにつれて、体の痛みや心の凝りが、少しずつ溶け去ってゆくのを観察しました ウォーキングメディテーションでは、前後や左右に重心を傾けず、心と体をぴったりと中心に一致させ歩く時、こんなにも心地よく安心感を生むのだと実感される体験もありました 言葉やテクニックではとうてい得られない直接の叡智を通じて、より細やかな感覚を信頼し進む勇気についても分かちあいが生まれました
中秋の名月と並び美しい月が楽しめるという「十三夜月」
171年ぶりと言われるミラクルムーンが、分かちあいの後の私たちをやさしく包み、静かに照らしていました
サイレンスが解かれる最終日には予定を変更し、リトリートセンターの近くにあるオーガニックレストランでランチを楽しみました 現地の日本の方とも合流し、和やかな分かちあいの時が流れました
今回のリトリートを通して、「開いているのに、尚かつ何もしない」という在り方を、深く体験する日々となりました
迷いや疑いが生まれれば、いつでも呼吸へ戻る 自分自身の息吹きを拠りどころとすることの大切さも、あらためて確かめることができました
リラックスした心身とともに、自分自身の胸の奥に在るもっとも大切なものを護り、それぞれの参加者がそれを確かに育んでゆくことを願わずにはおれない、そんな4日間でした